後藤 艮山(ごとうごんざん)(1659-1733) |
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山脇 東洋(やまわきとうよう)(1705-1762) |
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吉益 東洞(よしますとうどう)(1702-1733) |
後藤艮山【ごとう・こんざん】
後藤艮山
山脇東洋【やまわき・とうよう】
山脇東洋(Wikipedia)
吉益東洞【よします・とうどう】
日本における中国伝統医学の流れ
山本巖先生が尊敬してらっしゃったのは、後藤艮山。
お坊さんの最高の位だった後藤艮山は、カワウソの解剖を盛んにやっていた。お坊さんなので人体解剖はとてもやることは出来ず、当時カワウソは最も人間に似ていると考えられていた。
それでも物凄く働きかけを行って弟子の山脇東洋が東洋では初めて人体解剖を行った。
教科書的には蘭学者が行った人体解剖が日本初だと書かれているが、山脇東洋の方が早い。
人体解剖はヨーロッパでは紀元前に行われていたが、東洋では中国でもやっていなかった。
中国で最も古い人体解剖が行われたとも言われるが、当時は処刑の一つで生きたまま腹を切り裂いて内臓を取り出し、痛みで気絶したら水をかけて起こしまた切り裂いたという残酷なもので、とても医学の解剖と言えるものではない。
山脇東洋が行った人体解剖は、処刑された人体を用いて、その後はお寺で手厚く葬った。当時処刑された人は野ざらしだったので、手厚く葬るのはとても丁重な扱いだったということになる。
それでも物凄く働きかけを行って弟子の山脇東洋が東洋では初めて人体解剖を行った。
教科書的には蘭学者が行った人体解剖が日本初だと書かれているが、山脇東洋の方が早い。
人体解剖はヨーロッパでは紀元前に行われていたが、東洋では中国でもやっていなかった。
中国で最も古い人体解剖が行われたとも言われるが、当時は処刑の一つで生きたまま腹を切り裂いて内臓を取り出し、痛みで気絶したら水をかけて起こしまた切り裂いたという残酷なもので、とても医学の解剖と言えるものではない。
山脇東洋が行った人体解剖は、処刑された人体を用いて、その後はお寺で手厚く葬った。当時処刑された人は野ざらしだったので、手厚く葬るのはとても丁重な扱いだったということになる。
町医者の方がはるかに治療ができた。将軍家・大名の小児死亡率は非常に高かった。
梅毒は16世紀のコロンブスの時代に東洋に入ってきた。
中国の古典「尚書(しょうしょ)」には「薬瞑眩(めんげん)せずんばその病癒えず」とある。
吉益東洞より前の時代には梅毒はなかったため、古書をいくら読んでも梅毒は治せるはずもなかった。
方証相対は、鍵と鍵穴の関係と一緒で、三陰三陽を排除している。これが今の日本の漢方になってしまっている。